我慢をやめる生き方へ

我慢することをやめ、やりたくないことはやらない生き方を貫いていきたいと思います。

日常生活その27 友達がいない…

最近「友だち」について考えています。

考え始めたのは「生活と自治」という雑誌で小学生が「友達は多い方がいいの?」というテーマで討論していたからです。

 

僕にとって友達って誰なんだろうと考えてみました。

あの人は友達なのか、知り合いなのか、友達だったけど今はいつの間にか疎遠になっている人は友達と言えるんだろうか…とかいろいろ考えていました。

 

人によって誰を友達と考えるかはいろいろあると思います。

僕の中で考えた現時点での答えは「何かを一緒に楽しむ人」ですかね。

振り返ってみても、この人は友達だと感じていた時、何かを一緒に楽しんでいましたね。

凄く楽しく遊んでいた友達であっても、引っ越しなどで会えなくなったり仕事が忙しくなって疎遠になったりして何年も経ってしまうと、果たしてその人とは今でも友達なんだろうかと思ったりもします。

 

特に僕は20歳になって以降25回以上引っ越しをし、そのたびに友だちが減っていったように思います。

 

僕にとって一番友達の質、数ともに多かったのは実は宗教団体に属していたときでした。家庭連合(旧称・統一教会)ですね。

あの時は教祖を中心とした地上天国を作ろう!というスローガンの元、信者同志を実の兄弟姉妹以上に感じながら苦楽を共にしていました。一つの夢に向かって同志と共に頑張る世界でしたから、親友というレベルを超えて同志、兄弟姉妹というレベルまで行っていました。

僕の中では今でも彼らを友達だと思っていますが、まだ教団内に残っているメンバーから見たら僕はもう教団外の反対派という認識なのかもしれませんけどね。

家庭連合に入会する時、友達から反対されるから友達との縁を切った方がいいと言われて、家庭連合に入る前にできていた友達とは縁を切りました。

そして家庭連合を退会した時、家庭連合でできた友だちとの縁も切れたので、僕の場合、小さい頃からの幼馴染的な友達がほぼいないということになります。

 

僕は小さい頃から母親から友だちを作れ作れと言われ続け、プレッシャーに感じてきました。友達の多さが人柄・人格の良さの証明だという雰囲気で、友達の少ない僕はダメ人間だという烙印を押されてきました。

自分なりに頑張ってきたのですが、結果として友達はあまりいないという現状になっています。

 

「一緒に何かを楽しむ人」を友達だとすると、僕に友だちが少ない原因の一つは、楽しいと感じるものがコロコロ変わってしまう性格だったのが一番なような気がします。

楽しめるものが変わると、今まで遊んでいた友達から誘われても気乗りしなくなってしまうし、自分から誘うこともなくなっていきます。

あとは、そもそも今までの人生で本当に楽しめることに出会えて来なかったのかもしれませんね。友達が盛り上がっているのに僕が盛り上がれていないと自分も楽しくないし、次からその友達から誘われることも少なくなるような気がします。

何をしてても心の片隅に(なんかこれも違うな…)という本当に楽しめてない心があったような気がします。

あとは、読書やゲームなど一人で遊ぶものを好きになってしまったというのも大きかったように思います。

いくら友達を作れ作れと言われても、こういう性格だから友達が少なくなるのもしょうがないと思いますね。

幼い頃は友達の少ない俺は人格的に問題ありな人間なのかなと思ってきましたが、今はもう気にしてません。

ひきこもり・不登校ニートは友達が少ない人達だと思います。

なんせお金がないから何かを一緒に楽しもうとしてもなかなか難しいですよね。ひきこもりは交通費すらないのが基本ですから。

ひきこもり・不登校ニート精神障害者生活保護はこれからますます増えて行きます。

そういった意味では友達がいない・少ない、という人の方がこれからスタンダード(多数派・標準)になっていくのではないかと思います。

彼女・彼氏がいないのが今のスタンダード(多数派・標準)であるように。

 

友達がいない、彼女がいない、というのはしょうがないと思っています。

と言うのは、僕の性格だけが問題なのではなく、支配者がそういう方向へと誘導しているからだと思っています。

地域の繋がりや近所づきあい、コミュニティーを解体し、核家族や一人暮らしへと誘導し、助け合い文化をなくして政府の公的支援だけに依存させるのが目的だと思います。その方がたくさん家賃が取れるし、統治・管理もしやすいからだと思います。