我慢をやめる生き方へ

我慢することをやめ、やりたくないことはやらない生き方を貫いていきたいと思います。

登校拒否は素晴らしい事

先日ある先輩の家でお食事会があったので参加させて頂きました。

そのお食事会には先輩の友人や知り合いがたくさん来ます。

いろいろなタイプの人が来るのですが、みんないい人で面白い人たちなので

話していていつも楽しいのです。

その中で印象に残っているのが、ある女性の話でした。

その女性は小学生位の小さな女の子と一緒に遊びに来ていました。

その小学生が学校に行きたくなくなったそうで、そのお母さんがその事で悩んでいるという話でした。

その場にはしばらくの間登校拒否していた期間があったけど今は学校の先生をしている女性がいて、その方が相談に乗ってあげる事でそのお母さんはだいぶ心理的に楽になっているようでした。

私も今の日本の教育は今の時代や状況に合わなくなってきていると思っているので、小学生の女の子が学校に行かない事には大賛成だという事を話しました。

私は今の社会では完全なる負け組(貧乏、独身、彼女なし)なので私が今の日本の学校には行く必要がないと言っても全く説得力はないのですが、常日頃思っていることだったので、学校の先生をしている女性も同じ意見だったので、そこに便乗して話しました。

私の感覚では、今の日本の教育というのは、江戸時代から明治時代に変わるときに必要な人材を量産する目的に特化されたものだと思っています。

小学校では、約40人の生徒に対して先生が同じことを説明して覚えさせる。生徒の能力も性格も興味のある分野も一人ひとり違うのに、全員に同じことを覚えさせる。先生の意見や権力だけが絶対で、逆らうと怒鳴り散らされる。

これって旧日本軍の従順な二等兵を量産するためのシステムなのではないかと思ってしまいます。先生が小隊長で生徒は二等兵みたいな感じがします。

今の社会ではほぼ役に立たない内容ばかりを無理矢理頭に詰め込ませて、点数で優劣を比較させて生徒の自信や自尊心を踏み躙り、子供が自然の中でのびのびと遊ぶ時間を奪い、不自由と拘束感の中で育てる事で心が歪んだ人間を量産し続けている…。

子供は(こんな勉強詰まらない…、やりたくない…、もっと遊びたい…、こんな勉強してもあんな先生にしかなれなさそう…、いつも忙しそうで苦しそうな親のような人生にしかならなさそう…)というような事を感じているのではないかと思うんです。

子供は言葉で自分の気持ちを表現する事にまだ慣れてないので、ただ、学校に行きたくない、としか言えないと思います。

いじめられていたら、いじめられているとは口が裂けても言えないと思います。なぜなら、チクった事がバレたら苛めがさらに陰湿化し、残酷化することを洞察しているからです。親や先生にはいじめられっ子を救う能力がないんです。なぜなら、いじめっ子を24時間、365日監視する事ができないからです。いじめっ子は先生や親の監視の目をかいくぐって苛めてくるからです。

私はむしろ、親に「学校にはもう行きたくない」と告白できた小学生の女の子の勇気を尊敬します。

私は親からの暴力と脅迫が怖くて、学校に行きたくないとは言えませんでした。そんなことを言えば親から殴られて半殺しの目に遭うか、食べ物を与えてもらえずに餓死するか、家から追い出されて外で凍死するか、そういう未来が見えていました。

家庭において、親は経済力と軍事力を一手に握る独裁者ですから、自活できる経済力のない子供は絶対服従するしか生きる道はありません。

この女の子は親に学校に行きたくないと言えました。だから親子関係はいいんだと思いました。

この女の子は、今の学校教育には価値がないと見通せる洞察力を持ち、それを親に言える勇気も持っている凄い子だと思いました。

私が理想とする教育は、本人が興味を持っている事をやらせる事です。一人ひとりが自分の好きで興味のある分野を自習する。先生は生徒から質問を受けたときに答えるだけ。学ぶ楽しさを引き出し、生徒自らが主体的に学んでいけるように誘導するだけでいいと思います。本当は教育なんてしなくてもいいという気持ちもあります。教育よりも大切なのは自然の中で自由に遊ばせること。その中で必要な事は自然に学んでいくんだと思います。

子供が学校に行きたくないと言い出したら、よく気付いたねと赤飯を炊いてお祝いしてもいいぐらいだと思います。