結局瞑想するしかないんだと思う。
私は人の意見に影響を受けやすいタイプだ。
特に、尊敬している人や信頼している人から、論理的に整合性のある意見を言われると、すぐに納得して、自分の意見や考え方をコロッと変えてしまう。
よく言えば柔軟性があり、悪く言えば自分軸がない、洗脳されやすいタイプだ。
そういう訳で、私は、本を読んだり、ブログを読んだり、動画を見たりする中で、自分の考え方や意見がどんどん変わっていく。
そういう自分である事が分かっているので、私はあえてテレビと新聞とニュースはなるべく見ないようにしている。
テレビと新聞とニュースは、牧場で暮らしている私たちを誘導して、ある一定の方向へと導くものであるという意見に納得したからだ。
これからが本当に言いたい事なのだが、最近また衝撃的な内容を学んだ。
それは、輪廻転生はない、という事だった。
あの世にはいろいろな人生経験や記憶を蓄積しているボールのようなもの(アカシックレコード?)があり、この世に生まれてくるときに、そのボールの中から好きな人生経験の記憶を自由に持ち出してくることができるらしい。
例えば、数千年前にエジプトで暮らしていた経験をそこから持ち出すと、あたかもエジプトに住んでいた過去世を持っているような感じになる。
人は地球に生まれてくるときに、どのような才能を持つか、男性にするか、女性にするか、どの国に生まれるか、どの時代に生まれるか、どんな親の元に生まれるか等を自由に選ぶことできるそうだ。
私はこの話を聴いたときに、なぜ金持ちでイケメンで誰からも愛される魅力的な人格で生まれる事を選択しなかったのだろうかと思った。
なぜ貧乏で不細工で背も低く性格も自己中な人間を選んだんだろうか、とずっと考え続けてきた。
その理由の一つが少し見えてきた気がしている。
それは、私は瞑想をするためにそういう劣悪な条件を選んだのではないかという事だ。
ここの所、いろいろな人から貴方は瞑想した方がいいとか、瞑想の素晴らしさを事あるごとに言われる。
貴方は思考優位になっており、ハートから生きられていない、魂と繋がって生きた方が幸せになれるとよく言われる。
確かに私は思考してばかりいる。
ハートや魂はほとんど感じられない。いや、魂なんて全く感じられていないような気がしている。
そもそも魂って何なんだろう。
瞑想やマインドフルネスについての本を読んでビックリしたのは、思考する自分や、感情を感じている自分は本当の自分ではない、という事だった。
思考する自分を後ろから見ている自分、感情を感じている自分を後ろから見ている自分という物があり、それが本当の自分という事らしい。
思考する自分を後ろから見ている自分が「魂」という物なのだろうか。
そういう物を感じる為のものが瞑想らしい。
瞑想というと釈迦を思い出す。
釈迦は、豊かな国の王子として生まれ、豊かな衣食住に恵まれ、結婚もできて、妻子にも恵まれていた。多分労働時間も少なかったんだと思う。
それだけ恵まれていた状況なのに、それらをかなぐり捨てて、修行に出た。
豊かな衣食住や自由なセミリタイヤ生活では幸せになれなかったけど、木の下で瞑想していたら悟りを開いて幸せになれたそうだ。
もし私が金持ちだったら、旅行に行ったり、サッカーを見に行ったり、スペイン語を習ったり、ひたすら遊びまくって瞑想なんてしようと思わないだろう。
もしイケメンに生まれてたら、多分女性との交際に忙しくて瞑想なんてしようと思わなかったと思う。
瞑想にはお金はかからない。ただ黙って座って目を瞑るだけだ。貧乏人でもできる。