我慢をやめる生き方へ

我慢することをやめ、やりたくないことはやらない生き方を貫いていきたいと思います。

書評その143 逝きし世の面影 渡辺京二著

600ページもある大変長い本で、正直読むのが大変でした。著者の書く日本語が格調高い文学的な表現が多いというのも読むのが大変だったことの一つです。

そういった読みにくさを乗り越えてでも読みたかったので読み通しました。それほど重要な内容が書かれていると思ったからです。

内容は一言で言うと、江戸時代の庶民の暮らしです。

幕末から明治の初期にかけて日本を訪れたヨーロッパ人の記録を丹念に読み解き、江戸時代が一体どんな時代だったのかが克明に解き明かされていました。

今まで江戸時代というと、貧しい時代とか士農工商の差別が激しかったとか、悪い時代だったと教育されてきました。それは主に学校の社会科の時間であったり、テレビドラマや時代劇、歴史小説などでした。

けれども、今まで受けてきて歴史教育が根底から覆るほどの内容がこの本には書かれていました。

江戸時代は一言で言うと、庶民の楽園でした。現代社会のような苦しく辛い長時間労働などはなく、庶民の間に余裕と笑いが満ちていた社会だったのです。

今まで受けてきた歴史教育は一体何だったんだと思いましたね。

600ページですから分量だけでも普通の本の3冊分ありますし、密度の濃さから言っても普通の本の2倍程度ありますからこの本1冊で6冊分の価値があると思います。

映画評論その16 ゴールデンスランバー(日本映画) ネタバレなし

凄く面白かったです。手に汗握る展開、ストーリーで最後まで引き込まれました。

同じタイトルで韓国映画もあるのですが、僕は日本映画の方を見ました。

この映画はもともとは伊坂幸太郎さんの小説がもとになっているらしいです。

主演の堺雅人さんの演技がいつも通り上手かったというのもありますが、もともとの小説のストーリー自体が大変面白かったと感じました。

堺雅人さんだけでなく、他の役者さんたちもベテランが多く、演技臭さがなくて引き込まれました。レベル高かったです。

以前に「ポチの告白」という映画を見て、日本の警察の腐敗を感じましたが、今回の映画も日本の警察の腐敗が大きなテーマになっています。そして真実を伝えようとしないマスコミ。

すべての日本人に見てほしい映画だなと思いました。特に警察を信じている人やマスコミ報道を信じている人には特に見てほしいなと思いました。

書評その142 発達障害は食事でよくなる 溝口徹著

この本も題名通り衝撃的でした。

本当に発達障害が食事で良くなったら医学会で一大事ですよ。

今は日本では発達障害は治らない病気ということになっています。

発達障害の症状を抑える薬を一生飲み続けなければならないことになっています。

それがこの本で根底から覆されていました。ある意味痛快でしたね。

薬は一切飲まなくても発達障害は治るということが、実際の患者さんの事例とともに紹介されていました。本当に凄いことです。

僕も自分の発達障害の症状を直すために食事療法に取り組んでみようと思います。

この本で勧められている食事療法を簡単に言うと、

まずは1、小麦製品除去

2、乳製品除去

3、糖質制限(除去ではなく制限。人によってやり方は異なる)

4、オメガ3系の油(アマニ油、エゴマ油、魚油)を多めにとってオメガ6系の油(植物油)を減らす

5、ビタミンB群、ビタミンDDHAなどを多めにとる。食べ物から十分に取れない場合はサプリメントを使ってでも摂る。

この他にもいろいろありますが、大まかには以上の5点を気を付けるだけで発達障害が大幅に改善し、薬もいらなくなるし、症状も問題ならないレベルに消失するというのです。

上記の食事療法のことをオーソモレキュラー療法というそうです。

これだけ凄いことなのになぜ日本では正式な治療法として認められていないのか。

それは東大の医師が「エビデンス(証拠)がない」「いかがわしい治療法だ」と怒っているからだそうです。

ハーバード大学医学部大学院のマーサ・ハーバート助教授が著書「自閉症革命」でエビデンスを示しているし、著者の経営するみぞぐちクリニックでも患者が治っているというエビデンスが出ているのにも拘わらず。

日本では東大の医師が認めない関係上、アレルギー学会でも遅発性検査(食物アレルギー検査の中で、即時的反応を調べる検査ではなく、数時間後~数日後に反応が出てくるアレルギーを調べる検査=IgGアレルギー検査)も健康保険の適用が受けられず、数万円かかってしまうような状況です。

発達障害の薬は高いらしいです。その高い薬を一生飲み続けるとしたら凄い売り上げになりますよね。だから患者が治ったら製薬会社は困るのかなと思いましたね。

東大の医師がエビデンスはない!と怒っているという話を読んで、ますますこの食事療法は効果がありそうだなと思いました。俄然やる気が出てきました。小麦製品も乳製品も大好きなだけに止めるのは辛い気持ちもあるのですが、少しずつ始めてみようと思います。

※「我慢をやめる生き方へ」というブログタイトルなのに小麦製品と乳製品を我慢することになりましたが、今まで苦しんできた多くの症状(下痢・便秘・痔、頭痛・吐き気、頭が働かない、怒りを制御できない、集中できない、甘い物がやめられない、自己肯定感が低い、物事をポジティブに楽観的に捉えられない、抑うつ感、花粉症、同世代との人間関係が苦手、大勢の飲み会や井戸端会議が苦手、友達が少ない、口論になることが多い、等)を克服するためであり、人生を取り戻すためなので、やりたくてやるんだという思いで取り組んでいきます。

書評その141 ぼくはテクノロジーを使わずに生きることにした マーク・ボイル著 吉田奈緒子=訳

著者はどんな人かというと、一言で言えばお金を使わない生活をしている人です。それだけでなく、電気もガスも水道もネットも使わない生活をしている人です。いわゆる「オフグリッド」生活ですね。電気製品をほぼすべて手放しているので、パソコンもスマホも電話も電動のこぎりも使っていません。(「ほぼ」と書いたのは、この本を手書きで執筆しながらも、最後の清書にタイプ打ちを求められてタイピングをしたらしいからです。)

それで一体どんな生活をしているのか気になりますよね。

この本ではそんな著者の生活が春夏秋冬の季節ごとに日記のような感じで紹介されていました。

日々の生活は、自分の畑の世話と薪になる木材の運搬や加工が多かったように感じました。あとは自分で食べる魚を釣ってくること。当然会社には行っていませんし、いわゆる賃金労働というものはしていません。若い頃は有機食品会社でガムシャラに働いていた時期があったようですが、今はほとんどすべてを自給していらっしゃいました。

彼が使っている「テクノロジー」的なものは、ノコギリや包丁などの手動の刃物、鉛筆、自転車、靴ぐらいでした。

自転車で一日に20キロも走ったり、重たい木材を台車で運んだりしているので、肉体的にはかなり大変な生活だなと思いました。体が丈夫でなければできない生活だと思いました。でも数十年前はみんなこのような生活をしていたんですよね…

現代人は僕も含めて軟弱になってしまったんだなと思いました。

 

僕はこういう生活に憧れるまでは行かないのですが、ゆくゆくはこういう生活に近づいていかなければならないんだろうなという気持ちは確実に強まりました。

煮沸や濾過をしなくても飲める湧き水か井戸があるところに引っ越し、ガスが来なくても困らない薪ストーブや薪風呂を備えた家で、電気は自家発電し、魚や鹿や猪を捕まえて食べる、そういう生活を目指して今から準備していかなければならない気持ちになりました。

ただ、僕は著者ほどストイックに文明の利器を手放したいとは思えませんでした。やはり調べものや楽しみとしてのインターネットは今はまだ手放したいとは思えていません。

著者は人柄が温厚でジョークが上手いこともあって、人間関係に恵まれていました。

近所の人からも好かれ、パブで親しい人たちとお酒を飲み、楽器の演奏を聞いたり、という生活には文明の利器がない不便さはあるものの、寂しさも孤独感もなく、満足感や安心感が漂っていました。彼女がいたのも大きかったと思います。

ネットがあるとネットばかりやってしまい、人との交流をやめてしまいがちなので、ネットがなくても人は幸せになれるという原点に返らないといけないのかなとも思いました。

 

この本の欠点を挙げるとすると、都会育ちの人間にとっては読むのがちょっと大変だったところがあります。

何が大変だったかというと、知らない単語がよく出てきたからです。単語の意味や内容が分からないのでそれをスマホで調べながら読みました。どんな単語が分からなかったのかというと、農業(園芸)用語、林業(木材)用語、植物の名前、鳥の名前、動物の名前、虫の名前、魚の名前、釣り用語などでした。普段から農林漁業に携わっていたり田舎暮らしをしている人ならすらすら読めると思うのですが、僕は分からないことだらけだったので、調べまくりながら読みました。調べないで流し読みすることもできたのですが、それでは理解が浅くなると思ったからです。

 

最後に僕がいつも楽しみにしている著者独特の風刺ジョークと役立てたい豆知識を書き出しておきます。

P.50

 ぼくが育った1990年代には、「自然界の何がなくなってつらく思うか」なんて、誰も聞いてくれなかった。だのにいま、テクノロジーを手ばなしたとたん「機械を使えなくなって何がいちばんつらいか」を誰もが聞きたがる。

P.76

 ロバート・コルヴィルの『大いなる加速」を読んでいる。日ごとに――それどころか毎時、毎分、毎秒、はてはナノ秒単位で――加速していく世界についての考察だ。タブレット端末BlackBerry PlayBookの宣伝コピーを著者は引用する。「価値ある物事はすべて、高速化する価値がある」

 うまいことを言うね、ブラックベリー。「のんびり一時間も二時間もかけて愛を交わさずとも、五分もあればヤれますよ」ってわけか。

P.82

 「でも、とてもじゃないけどできないなあ、食器洗い機を手ばなすなんて」。しかし、彼の言わんとすることもわかる。自分が使った皿をいちいち手で洗っていたら、生態系や社会に起きている――食器洗い機などが引き起こしている――問題について、告発する文章を書いたり反対運動を展開したりする時間を、どうやって捻出できようか。

P.131 

 歩くこと自体を目的に歩くようになったのは、ごく最近だ。ぼくの育った産業文化において、歩いている時間は無為の時間とみなされ、無為は美徳ではなかった。散歩など、現役を退いた老人が健康を取り戻すためにすることであって、これからキャリアを積み、家族を養い、事業を拡大し、健康を損なわんとする若者のすべきことではなかった。

P.147 

 豆知識1…オオバコは天然の抗ヒスタミン剤。花粉症の症状が軽減。オオバコの葉を20枚ほどお湯で煮る。できれば二時間以上。そのお茶を飲む。

P.305

 豆知識2…著者のリンゴ酒の作り方。リンゴの傷んだ部分を取り除く。リンゴをつぶす。どろどろの状態にする。絞って果汁を出し尽くす。そのまま樽に詰めて作業完了。砂糖もイーストも加えず、リンゴのみ。6か月待てば完成。

書評その140 2週間で体が変わるグルテンフリー健康法 溝口徹著

いかに小麦が身体に悪いかが凄くわかりやすく書かれていました。

グルテンだけが悪いのではなく、小麦そのものも悪いことがわかりました。

それとカゼイン(乳製品に含まれるたんぱく質)も砂糖も甘味料も悪いことが分かりました。

要は、小麦と乳製品は完全除去し、糖質を減らして糖質制限したらいいという話でした。

お米などの炭水化物もあまりよくないらしいですね。パンがダメだからお米を食べまくったらいいというわけでもなさそうです。肉や魚と野菜を多めにとるのがいいらしいです。

お医者さんが書いた本なので生化学的な話が多く、それじゃぁ一体何を食べればいいんですか、というメニュー的な話は少なかったので、そこは物足りなさを感じました。

この本で一番良かったのは、アレルギー検査にもいろいろあるということが分かったことです。

IgEアレルギー検査というのは、即時にアレルギー反応が出てくる食品を調べる検査で、通常はこの検査が行われているけれど、もっと大事なのはIgGアレルギー検査だということ。IgGアレルギー検査というのは、即時には反応が出ず、数時間や数日間という時間差を経てアレルギー反応が出てくるという「遅発型」のアレルギー食品を調べる検査。本当はこちらの食品の方が厄介なのですが、日本の小児アレルギー学会とアレルギー学会では遅発型のアレルギー食品を使っての診断を「推奨しない」としているそうです。ですので、遅発型のIgGアレルギー検査をやってもらえる病院を最初に調べておく必要があると思いました。

書評その139 ナリワイをつくる ~人生を盗まれない働き方~ 伊藤洋志著

ナリワイとは、「生活の充実から仕事を生み出す手法」である。これが著者の定義ですが、大雑把に言うと、生活に密着したお手伝い的な事をして月3万円ぐらいの報酬をもらうようなことを複数やることです。つまり大きな元手なしで始められる小規模な自営業ということです。

著者が実際にやっているナリワイは、モンゴル武者修行ツアー(モンゴルで現地の人の生活を体験するワークショップ)、床の張り替え、シェアオフィス、シェア別荘、木造校舎での結婚式などです。

僕も著者のようにナリワイをいくつか作りたいと思ったので、ナリワイの作り方を以下に抜粋しておき、見返していこうと思います。

P.126

 私がよくやる鍛錬方法は、「無駄なもの」や「こういうものがあったらいい」というアイデアを書きまくる作業である。ポスト・イットに書いて貼って、眺めて、似ているのを集めて分類する。落書きみたいにして、書き込んでもよい。これは、「KJ法」(川喜田二郎氏考案)という文化人類学の調査で使われるやり方を利用してやっている。厳密に踏襲していないので、「なんちゃってKJ法」だが。作業といっても、ポイントは遊び感覚でやることと、真面目なテーマにしないこと。こういうのは、仕事に悩んで切羽詰まっているときにやっても、あまりいいアイデアが出てこない。なんなら軽くお酒でも飲みながらやってもいい。あるいは温泉宿でやるのも一興であろう。ただ、会議室はお勧めしない。日常の発想から抜け出せないから、あまりうまくいかないと思う。

P.129

 例えば、「ふんどしが流行る」と予想したら、何をすればよいか考える。これが第1段階。まず自分でふんどしをつくってもよいだろう。ここで自分がつくるのが下手だったとしても気にする必要はない。作り手に器用不器用は関係ないし、つくる以外にもやる仕事はある。各地に眠るふんどしの工房をスカウトしてふんどしのセレクトショップを開いてもよいかもしれない(家賃がかかるが)。または、ふんどしぐらいみんな自分でつくれるやろ、ということで、作り方を本にまとめて販売する、というのも一つの手である。なんやかんや、独学は厳しい、ということで、集まってふんどしをつくる会を企画して、参加費をいただいてもよいかもしれない。いやいや、それより全国のふんどし関連の情報を集めて会報を発行して月会費を集めて仕事にしよう、というのもいけるかもしれない(さすがにいきなりは厳しいか)。このようにふんどし一つをとっても、ナリワイの形は色んな選択肢がある。どれが成立するのかは分からないが、何も製品をつくるのだけが仕事ではない、ということは押さえておきたいポイントである。また、どれがナリワイに適しているかも考えてみる。「お店を開く」のようなものではなく、家賃などの固定費があまりかからない方法を考えてみることが必要になってくるだろう。

 このように、様々なやり方が考えられるが、まず最初に何ができるか、というと、この場合は、自分でふんどしをつくって使ってみる、ということが必要不可欠だろう。自分が使って、こりゃええわ、とならないと自信をもって友人や他人に勧めることができない。それができないなら、ナリワイにはなり得ない。

P.130

 第2段階としては、考えた仕事がどういう価値を持つか、という視点で考えることである。例えば、先に挙げた例で言えば以下のように考えられる。

 つくる→役立つ物を製作して提供する、人の代わりに物をつくる、人がつくれないような優れたデザインを考える

 販売する→他人の代わりに物を選択して運ぶ

 作り方の本を出す→やり方を研究して誰でもつくれるような形にまとめる

 メディアを運営する→情報をまとめて共有できるようにする、同好の人が情報交換できるようにする(ただし、ウェブマガジンなどは、単体で仕事にするのは難しいかも)

 ワークショップを企画運営→人が集まって、技術を身につけられる場所と機会をつくる

 材料をつくる→ふんどしに最適な布をつくることで、ふんどしをつくる人の環境を整備する

P.133

 第3段階としては、選んだナリワイの価値が実現するという証拠を揃えることが必要だ。

 これも「ふんどしをつくって売る」を例にして考えよう。デザインもいいし、体に負担をかけないふんどしをつくった! というところまで来た、としよう。自分で着てみて、申し分もない。では、次はいかにしてそのすばらしいふんどしを、見知らぬ人に必要だと思ってもらえるのか、という点である。それには証拠が必要である。人に何かをすすめるときに「すばらしいのでぜひ!」とメールやTwitterで言ってしまうこともあるかもしれないが、これはあまりよくない。理由が書かれていないので、初めて聞いた人には何が素晴らしいのやら分からないのである。

 証拠と言っても、そんなに難しいものではなく、使った人の感想などに代表される他人からの評価であったり、有無を言わさぬかっこいい写真なのかもしれない。写真や感想のほかには、ふんどしが身体にいかに負荷をかけない下着なのかを調べた科学研究でもよいし、歴史的になぜふんどしが選ばれて来たか、という過去のエピソードでもよい。ふんどしの場合は、ふんどし自体がまだ一般的ではないので、自分のつくったふんどしの前に、ふんどし自体のよさを示す証拠も役立つだろう。さらに、「なぜにあなたのつくったものがよいのか」が分かると上出来である。あなたのふんどしを作るに至ったエピソードも真実味があるものであれば、よい証拠になるだろう。ちゃんとした動機のもとにつくられた品物は、やはり信頼しやすい。あるいは、万が一、そもそもあなたの実家がふんどし屋であれば、信頼と実績の創業300年、という事実も証拠になり得る。

P.135

 第2の方法、「日常生活の違和感を見つける」は、言い換えると「足下を見る」ことである。これは、未来とかを考えるのが苦手な人に向いている。細かいことを含めて、日常生活の違和感をたくさん見つける、という帰納的なやり方である。「なんで、ゴミが多いの?」という大きいことから、「そもそも、優秀な即戦力って何や?」、「そもそも、会社の飲み会が必要か?」、「大学の授業料って高過ぎじゃないか」、「大学が4年間は長すぎる」、「もっと片付ければこの銭湯も行きやすくなるのに」、「なんで大きいイベントがあるとホテルが高くなるの?」とか、とにかく日常に発生する違和感を集めまくる。

 似て非なるやり方として「なぜを5回繰り返せ」というやり方があるが、これは既存の枠組みの中でしか物事を考えられない傾向があるので、21世紀のポストグローバリゼーションの生き方を考えるナリワイ的考え方としては、「なぜ」より「そもそも」を常に考えて違和感を見つけていくのがよい。「なぜ、車が売れないのか?」と考えるよりも「そもそも、車をこんなに売る必要があるのか?」とか、「どうやったら夢のマイホームが手に入るか」じゃなくて「そもそも、住宅ローン自体がいらなくないか?」と考えていくほうがお勧めである。

P.137 

「大学の授業料が高い」と思えば、じゃあそもそも校舎や常勤の教授はいらない、すごい実践者を年に3週間ぐらい集中して招聘するだけでいい、あとは各自学生が好きなように実践活動を通して学ぶ、という新しい形の大学を立ち上げるというアイデアもありえる。例えば、年間100万円の授業料の半分は講師を招聘した集中講義代、残りの半分は学生自身が世界を放浪したり、習い事をしたり、制作活動をする、というような自由な使い方ができる、という大学があってもいいはずだ。

P.161 適正な価格を検討する

 その際、気になるのは値段の付け方である。これは自分がどういうお客さんと一緒に自分のナリワイを育てていきたいか、ということが基準になる。お金持ちを相手にしたいのであれば、それなりの価格にしないといけないし、自分と同世代と一緒にナリワイを育てたい、ということであれば、自分の同じ世代が払える適正価格を探ることになる。また、自分だけじゃなくて、仕事を一緒にやる仲間に対しても適切な配分ができるようにしていくことも重要である。ただ、ナリワイ的生活を志す人は基本的いい人(つまり非バトルタイプ)なので、お金をもらうことに抵抗があることが多い。だから私の経験上は、自分が思うよりも少し高めに設定しておいた方がちょうどよい場合が多い。予想外のコストはかかるものだし、ギリギリの値段設定だと、最初のほうはいいが、継続的に続けていくシステムをつくる余裕が生まれないからである。また、ナリワイに興味を持つような人は、設定した値段以上の創意工夫に挑むようにできているから、初心者だからと勝手に謙遜して値段をあまりに低く設定しすぎると、そもそも自分の気合いが入らないので、結果的に世の中にとってもよくない。

 とはいえ、金額の多寡は、これはもう各自の自由である。ナリワイ初心者にありがちなのは「お金をもらうからには」と完成度重視で考えてしまい、いつまで経っても実行できないということ。

 極端な話、荒削りなサービスであろうとも、鋭い着眼点で他にはないものであれば、ありきたりの内容で完成度が高いものよりも、荒削りなほうがいい場合もある。

P.164 

なんなら、不満がある人には全額返金する、というルールを設けてもいいので、まずはチャレンジできるようにすることが大事である。

P.167

 参加者を集める、ということに関しては、無名からスタートするナリワイとしては必殺技はない。当時は2007年だったので、SNSとしてはmixiぐらいで、まだFacebookTwitterもなかった。まず、ネットを通じた告知では、関係する団体や自分が通っていた社会人スクールのウェブサイトに、1枚だけのモンゴル武者修行ツアーのページのリンクを張ってもらったり、自分のブログであったり、mixiにコミュニティを立ち上げたり、やれることを試す、というかんじになる。各媒体からの反応は1、2名であったが、それが5カ所もあればもう10人である。そんなに難しいことではない。ちなみに、最低1回ぐらいは人に直接対面する形で告知するのも、自分が直に反応を聞けるのでやったほうがよい。「モンゴル武者修行ツアー」の場合は、友達の友達まで参加OKの少し大きめの忘年会をモンゴル料理屋さんで企画して、「今年の夏にモンゴル武者修行ツアーをやってみようと思っています」ということを丁寧に短くご説明申し上げた。宴会なので酔っぱらう前に手短に、である。ここで参加を即決した人はいなかったが、一人ぜひ参加したい、という方に出会えた。やる前は「面白い自信はあるが、果たして人が集まるのだろうか」という不安もあったので、直に声を聞ける、というのは初心者には特に自信になる。おすすめである。いかにネットが効率的と言っても、直接自分のナリワイについて話す機会を持つのは力になるのだ。

 とまあ最初は、こんなかんじで地道に集めることになるだろう。

ブログのタイトルを変更しました。

ブログのタイトルを変更しました。

以前のタイトル(雇われないで生きる道)は自分で決めたのですが、どうもしっくりこない気持ちがずっとくすぶっていたんです。

でもなかなかこれといった案が浮かばなかったもので、破れかぶれで絞り出したタイトルだったんですよ。

「我慢をやめる」というのは僕の生き方の軸になっているし、我慢をやめてから人生が好転し始めたので、ひとまずこのタイトルで行こうかなと思いました。

ブログのタイトルはそう簡単に変更してはいけないということをどこかで見たような気がして、コロコロ変えていいものかと悩みましたが、変えたい気持ちを我慢できなくなったのでしょうがないですね。

これで僕のブログをタイトルで検索して下さっていた人は見つからなくなってしまうかもしれませんがやむを得ないです。

「雇われないで生きる道」というタイトルでしたが、確かに雇われるのは嫌いです。

でも例えば将来喫茶店を開きたいと思っていたとして、その勉強のために喫茶店で雇われて働くのはいいよなという思いがありました。

今日は支離滅裂な文章になりました。すみません。いつも論理的に考えているわけではなく、思いつきやひらめきで動いているんです。思いつき文章です。たまにはいいでしょ。ごめんなさい。