「ありのままの自分を受け入れる」その8 ありのままの自分を誇りに思います。
僕がひきこもり生活に入ったのは2018年の9月からですから、もう1年と半年が経とうとしています。
本当はもっと早くにひきこもり生活がやりたかったのですが、なかなか決心がつかなくてできませんでした。
と言うのは、実家にいた時は親からの暴力や脅迫やらが強烈過ぎて、このままひきこもっていたら間違いなく殺されると思ったからです。そんな家でひきこもるのは恐怖だったし、とてもとてもひきこもる決意はできなかったです。つまり、当時の自宅でひきこもるという事は父親に殺される覚悟を固めないとできなかったのです。
そんなこともあり僕は置き手紙をして家出をしたんですけどね。あれは確か大学4年の4月だったかな…
今振り返ってみても家出しておいて本当に良かったと思いますね。
後から母親から聞いた話によると、妹は父から包丁で脅された事もあったらしいです。
誰も死者が出なくてほんと良かったと思います… いやはや…凄まじい家庭だった…
父は口先だけの男じゃなかったし、興奮すると頭が鶏のようにカクカクしていたからホント怖かったです。僕よりも背は高いしボディビルダー並に体を鍛えてたから不意打ちでもしない限り勝ち目はありませんでした。だから本当に殺されてても不思議ではなかったですね…
話が逸れてしまいましたが、ひきこもり生活1年半の新米の僕がひきこもりについて語るのは少しおこがましいような気もしますが、そんな事はおかまいなしに今日はひきこもりの社会的価値について語ってみたいと思います!
ひきこもりは今40歳未満が54万人、40歳から64歳が61万人らしいです。(2019年の内閣府の調査によると)
この話を聞いた時点で感じたのは、(65歳からはひきこもってもいいんですね…)という物でした。64歳までは働けよ!という事なんだと思います。
働かない人は社会に何の価値も提供できてないのでしょうか?
僕もずっとそう思ってきました。
でも薄々思っていた事が今回のコロナ騒動でだんだんハッキリしてきました。
ズバリ!結論を言うと、「ひきこもり行動というのはストライキである!」と思っています。
今でこそ労働組合は会社の上層部に取り込まれてストライキなんてやらなくなりましたが、一昔前は賃上げなどを巡ってよくストライキを起こしていたと思います。
ひきこもりというのは、会社に対するストライキではなく、社会に対するストライキだと思います。
なんでこんなにつまらなくてキツイ仕事をこんな低賃金で朝から晩まで週5日もやらなきゃなんないんだよ!という怒りのストライキなんです。
今ストライキなんてやったら即解雇でしょう。だから今ストライキなんて話聞いた事がありません。一部の大企業だけじゃないですか、ストライキができる会社なんて。中小企業でストライキが起きたなんて話聞いた事がありません。それだけ使用者側がやりたい放題な状態なんですよ。
はっきり言って働きたい会社がない。見つからない。やっと見つかってもとんでもない高倍率でとてもじゃないけど採用されない。残っているのはブラック企業ばかり。こんな社会で就活しろ、就職しろと言われてもやる気なんて起きるわけないですよ。
誰かがひきこもりをやらないと今の日本は変わらないと思いませんか?
(社会的企業やNPOという形で切り込んでいくのは素晴らしいと思います。僕も今その線で何かできないか考えています。)
誰かが登校拒否をしてくれたから学校が良くなってきたと思います。
つまり登校拒否児が静かなストライキをしてくれたことによって学校環境が改善され、未来の子供たちがより良い学校に行けるようになったのではないでしょうか。
登校拒否した生徒がいたお蔭で多くの生徒の苦痛が軽減されたんだと思います。
つまり、登校拒否ストライキは未来の子供たち、未来の人類に価値を提供していたのではないでしょうか。
ひきこもりもそれと似ていると感じています。
登校拒否児の増加で学校環境は良くなってきましたが、ひきこもりの増加が社会環境を変えるまでにはまだ至っていません。
でも今の日本のいろいろな歪みを見ていると社会制度の変革、考え方の変革は避けられない状況になってきたと思います。
社会が良い方向に大きく変わった時、後世の人たちは今の時代を振り返る時が来ると思います。
あぁ、あの時代のひきこもりの人たちは奴隷制度撤廃のための捨て石になった人たちだったんだなと。
良い建物を作るためにはまずは老朽化した部分を壊し、片付けて更地にする必要があります。その土台があって初めて新しい建物を建てる事ができると思います。
僕達ひきこもりがやっているのは、既存の価値観・意識を壊す部分なんだと思います。
更地に立派な建物を作るのは後続の若い人たちに任せて、僕らは人から馬鹿にされ嘲られ評価されない泥臭い部分を担当してたんだなと思います。
そういう部分を志願した自分を誇りに思います。