我慢をやめる生き方へ

我慢することをやめ、やりたくないことはやらない生き方を貫いていきたいと思います。

誕生日を祝うことについて

僕が大人になってから凄く疑問に思って来たのが誕生日を祝う習慣です。

なんで誕生日が来るとおめでたいのか、なんでおめでとうと言うのかが分からないのです。

確かに子供の頃は年に一回玩具を買ってもらえるから嬉しいしめでたい日でした。

しかし、大人になったら別に玩具を買ってもらえるわけでもないし、
会社や区役所からボーナスが支給されるわけでもありません。


正直な気持ちを言うと、誕生日は悲しい日で、葬式以上に嘆き悲しみ涙を流すべき日ではないかと思っています。

なぜなら、生まれてくる前は「衣食住無料、交通費無料、瞬間移動可能、願い事は瞬間的に現実化する」という世界で生きていて、幸福感を味わっていたからです。

そして、生まれた後は、難しい事や困難な事ばかりで人生の99%は苦しみとなります。
そして、死んだ後は生まれてくる前にいた世界に戻れて幸福感に包まれます。

「衣食住無料、交通費無料、瞬間移動可能、願いは瞬間的に現実化する」世界から、
「衣食住高額、低賃金労働、交通費有料、瞬間移動不可能、思考は現実化しない」という世界に来たのが僕ら地球人なわけです。

どう考えても苦しい、難しい、困難な環境なわけです。

なので、誕生日が又来てしまったという事は、苦しい地球人生活がまだ終えられなかったんですね、ほんとに悲しい、残念な一年間でしたね…、まだ生きていかなければならないんですね、と嘆き悲しみ涙に暮れる日というなら分かります。

それが誕生日おめでとう!嬉しい!楽しい!というのはとても不思議です。

苦しく難しく困難な環境だから「魂が成長する」とか「魂を研磨できる」という話を聴いたことがあります。

しかし、「魂が成長」したり「魂を研磨」できたら、何かメリットがあるのでしょうか?何か良い事があるのでしょうか?
そもそも「魂」が何なのか、「魂」が実際に存在しているのかさえも分からないことです。

人生山あり谷ありな人ならまだいいですが、人生谷あり地獄あり山なしという人生な人であれば、誕生日はめでたくもなく、今年もまだ死ねなかったという悲劇の継続と言う他ありません。

誕生日は嘆き悲しみ、慟哭し、お葬式では「やっと死ねたんだねぇ!おめでとう!」と明るく楽しく盛大に祝う方が自然だと思います。