我慢をやめる生き方へ

我慢することをやめ、やりたくないことはやらない生き方を貫いていきたいと思います。

仕事その8 そんなにいやじゃないこと、あまり苦にならないこと

先日ひきこもり当事者の自助グループに行ってきました。

僕が今一番楽しみにしているイベントです。

なぜなら、いつも奥深く、本質的な話が連発するからです。

参加してみて、今回も心に大きな変化が生まれました。

「もう二度と働きたくない!」と思っていた頑なな心にヒビが入りました。

それは、働いた方がいいのかもしれない、働いてみようかなという思いでした。

なぜそう思ったのかと言うと、働かないよりも働いた方が楽かもしれないと思ったからです。

働いてない人の話(ひきこもりや生活保護の人の話)と働いてる人の話、双方を聞いていて思ったのは、ひきこもりの人や生活保護の人は本当の意味で幸せを感じている人はいなくて、大なり小なり苦しんでいるということでした。

それに対して働いている人は(大なり小なり苦しんでいるのかもしれませんが)それなりに幸せそうな、満足そうな印象を受けたことでした。

僕の感じたものが本人が感じている事実とは異なるかもしれませんが、僕の印象ではそう感じました。

僕自身の話、生活保護で最高に幸せかと言われたら決してそうではありません。

確かにブラック企業で過酷な労働をしたり、最低賃金でつまらない作業を繰り返すよりはいいかもしれません。

でも、生活保護を約1年間受けてみて、万民にお勧めできる生き方かと言うと決してそうは思いません。僕は最近はあまり人にお勧めはしなくなりました。

お勧めできるのはせいぜい配偶者や親から虐待を受けていて辛い人、ホームレス生活が辛い人、今の仕事が辛い人、子育てに労力を注ぎたいシングルマザーぐらいでしょうか。

(今後また別の記事で生活保護のデメリットをまとめようと思います)

 

(働いてない人よりも働いてる人の方が苦しんでいない…働いていない人の方が苦しんでいる…)

これは僕にとっては大きな気付きであり、心の中に静かな、しかし確かな変化をもたらしました。

 

僕は働きたくないのではない。やりたくないことをやりたくないだけなんだなと思いました。

やりたくない職種はやりたくない。いたくない職場にはいたくない。理不尽な目に遭いたくないだけなんだと思いました。

 

もしかしてまだ知らない、やりたくなるような仕事があるのかもしれない。

もしかしてまだ知らない、居心地のいい職場があるのかもしれない。

もしかしてまだ知らない、理不尽な目に遭わない職場があるのかもしれない。

そう思いました。

 

ハローワークの検索サイトでも転職サイトでも絞り込む項目が「職種」「勤務地」「勤務形態」「休日」などでしか絞り込めないために辿り着けていない仕事があるのかもしれないと思いました。

世の中に存在する仕事を片っ端から一個一個丹念に見ていけば、もしかしてやれそうな仕事、やってみたくなるような仕事が見つかるかもしれないとは思いました。

でも僕の場合はそれが人に比べて極端に少ないだけなんだなと思いました。

 

僕が仕事サイトで検索するときに、絞り込みに使いたい検索条件は、

1、理不尽な扱いを受けない。→奴隷や二等兵のような扱いをされない職場。怒鳴る人がいない職場。

2、上から目線で命令されない。→同じ人間として対等な関係で仕事を依頼される関係。

3、その日の体調や気分でその日に働くか働かないかを決められる。→ウーバーイーツのような自由度がある働き方。

4、排泄物やゲロなどの汚いものとは関わらない仕事。→トイレの清掃やおむつの交換などがない仕事。

5、スピードや正確性が求められない仕事。→遅くてもミスがあってもいい仕事。

 

好きなことや得意なことを仕事にしようと思って探してきましたが、結構アイデアが必要で実際は難しいなと思いました。(本や漫画が好きだからと言ってそれを読んでいるだけでは仕事にはなりませんよね)

それが思い付かない以上、それは一旦保留にしておいて、まずは「そんなにいやではないこと」とか「そんなに苦にはならないこと」を仕事にしてもいいのかなと思いました。

「ありのままの自分を受け入れる」その22 ブログ更新を一時休止します。

今までブログを毎日更新してきましたが、今日からは不定期にしようと思います。

しばらく書くのを休もうかとも思いました。

 

理由はいろいろあるのですが、

一番大きいのが最近忙しくなって来たこと。

赤ちゃんの世話をする時間が増えてきたことや、ひきこもりの自助グループや支援団体に通うようになったことが大きいです。やることが増えたので何かを削らなければならなくなりました。

 

次に大きいのは、そんなに毎日毎日どうしても書きたいと思えることがなくなったこと。

書くことも楽しいことではあるのですが、書くことと読むこと両方やってみて僕はやっぱり読んだり見たりするほうが好きなことが分かったこともあります。

 

三番目としては、今年の目標としてブログの毎日更新を掲げましたが、ブログの質にこだわらなければできるようになったこと。毎日更新できるようになったことで、毎日更新する事よりも質にこだわりたいという思いに変化したことが大きいです。

 

四番目としては、ブログの主要なカテゴリーに書評があるのですが、あまりお勧めできる本に出会えず、お勧めできない書評になりがちで、お勧めできない書評には熱量もこもらないし、あまり意味がないかなぁと思ったことがあります。

 

五番目としては、ブログでも取り組んでいたことですが、ありのままの自分を受け入れることを実践するためです。今の自分はブログの毎日更新よりもやりたいことが増えてきた。だから自分で立てた年始の目標に縛られずに今の自分の欲求に正直になろうと思いました。

 

六番目としては、文章を書く練習をしようかなと思っていたこともあります。と言うのも、僕が人並みにできそうな職種はやはり文章を書く仕事かなと思っていました。それでまずはブログで練習して、あわよくば文章を書く系の仕事にありつけたらいいなぁなんて淡い期待もありました。

でも文章を書く仕事がどうしてもやりたいわけではなく、本当は働きたくないのが本心なので、もういいかなと思いました。

 

七番目としては、自分で自分のブログを読んでみて、カッコよさがなくなってきたなと感じたことがあります。働けない自分をアピールするために発達障害であることを声高に叫んでみたり、ケースワーカーや就労サポーターを批判してみたり…。それもこれもかなさんや子供と別れたくないという保身の思いからだったのですが…。言い訳みたいなブログを書き続けてもしょうがないよなという思いが湧いてきました。

 

まぁでも今までのカッコ悪いブログも自分としては悔いはないですよ。世の中のブログのほとんどはカッコいい内容ばかり、自分の醜態を晒しているものはなかなかないですよね。僕は見たことがありません。他の人と違うことがやりたかったのでそれはそれで良かったと思っています。

言い訳したっていいじゃん。見苦しい醜態さらしたっていいじゃん。

恥や見栄でがんじがらめになっている日本の息苦しい文化を破壊したかったというのも少しありますよ。

 

これから全くブログを止めるということにはならないと思います。

これからは本当にお勧めしたい本の書評や、本当に訴えたい内容が湧いてきたときにブログを書こうかなと思っています。

ひきこもりその19 生きる意味

先日、10代から50代までの男女8人ほどで「生きる意味」について意見交換しました。

普段からそういう話をしたかったのでとても面白かったです。

生きる意味は人それぞれだなと思いました。

正解は一つではないんだと思います。

いろいろな意見を聴きました。

・生きることに意味はない。けれど自分で意味づけしていくものだと思う。

・自己責任で生きることを求められている気がするので自己責任の意味について最近考えている。

・好きなことや楽しいことをすることに意味がある。楽しいことをやるように心がけている。

・意味を探すことは難しい。

・死ぬのは怖い。

・死んだ時葬式に来た人たちが本気で悲しんでいたら、生きた価値があったのかな。

・人生に意味はないと思う。

・生きていることに意味があると思う。

・生きる意味は年齢と共に変わってきた。社会に出たての頃は自分の仕事能力を高めることが自分の価値を高めることになると思って、それが生きる意味になっていた。

・世の中に対して何かやれているときに生きている感を感じる。

ゴッホは金銭的に恵まれなかったが歴史に名を遺した。歴史に名を残すことができたら生きた意味があったと思う。

・高校の先生にお世話になった。凄くいい先生だったので自分も先生になろうと思っている。

・今までは会社の中に自分の立ち位置を見つけていけばいい時代だった。しかし、これからの時代は会社が一生面倒を見てくれるわけではなくなる。自分の立ち位置や自分の目的のために会社を利用するぐらいのスタンスが必要になってくる。

・好きなことを仕事にしなくてもいい。余暇に好きなことをしてもいい。

 

僕はこの場に来るまでは生きる意味が見つかっていませんでした。

しかし、「歴史に名を残す」という発言がヒントになって、「歴史に意味のあるものを残す」ことに興味が出てきました。

「自分にとって意味があると思えるものを残すことをやる人生には意味がある」と思えました。

僕は他の誰かがやっていることにはあまりやる意味が感じられません。なぜなら、その人がやればいいと思うからです。

むしろまだ誰もやってないことにこそやる意味が感じられます。

今考えているのはやっぱり自死支援団体の創設です。日本にないからです。スイスにしかないそうです。

日本にないからこそ作る必要があるし、やる意味や価値を感じます。

ただ本音を言えば、自死支援団体を作ることよりも自分がまず自死支援団体を利用したいだけだったりします。

自死に成功する人の背後に未遂者が10倍以上いると言われています。

そういう人を助け、確実に楽に苦痛なくあの世に送ってあげられる支援が必要だと思います。

未遂は本人も苦しいだけでなく、医療関係者にも多大な負担を掛けることになるのでそれを防ぐ意味でももっと安価で手軽な支援が必要だと思います。

精神疾患その3 ADHD人間の子育て

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不安げな目で見つめる赤ちゃん

昨日赤ちゃんを10cmほどの高さからコルク板の上に頭から落としてしまいました。

大泣きされてしまいました。

手が滑ったんです…

本当に申し訳ないことをしてしまったと思います。

土下座して謝りました…

幸い、高さが10cmと、それほど高くはないところから落としたことや、落とした場所にコルクの板が敷いてあったこともあり、大事には至りませんでした。不幸中の幸いでした。

数週間前にも半日の間に3回も赤ちゃんの頭を壁やガラスにぶつけてしまいました。

ぶつけたというよりも、動きの激しい赤ちゃんの動きを止めることに失敗し、赤ちゃんが自ら壁やガラスに頭をぶつけてしまったんです。

その時はまぁたまにだからしょうがないと思っていましたが、今回の落下の件で、今まで通りに子育てに参加し続けるのはやめようかと思いました。このままの調子でいけば近いうちに必ず大きなミスをすると思いました。大きなミスというのは、高い所(立って抱っこした状態など)から手が滑って落として赤ちゃんが死ぬという可能性も含んでいます。

働くためには飲みたくなかったADHDの薬も子育てのためなら飲んでみようかなという気持ちになりました。子育てから手を引き、ミスしてもリカバリー可能な家事で後方支援していこうかなと思いましたが、かなさんから子育ても一人じゃできないと言われたので、リスクを負っても子育ての手伝いも続けていかざるを得ないと思いました。

かなさんからは注意して持てば落とすことはないと言われましたが…

今までも携帯電話やお皿をたくさん落として壊してきましたので、注意だけではどうにもならないのですが…

とりあえず薬は飲まず、赤ちゃんと関わっているときは赤ちゃん以外のことは考えないで赤ちゃんのことだけに集中し、真剣に関わっていくしかないかなと思いました。

そんなことだけではどうにもならないのがADHDなんですけどね…

まぁ、将来、手が滑って虐待致死とかでテレビに出るかもしれませんが、そこは腹をくくっています。

「ありのままの自分を受け入れる」その21 社交確信障害

とあるひきこもりの集まりに行った時、社会不安障害の人と出会うことができました。社交不安障害とも言うみたいですが、その人は精神障害者手帳の3級を持っていらっしゃいました。

僕は社会不安障害という病気を知らなかったので帰宅後に調べてみました。

対人緊張や対人不安が強く、その結果として対人関係を避けるようになる病気らしいです。

僕は10代、20代の頃は対人緊張や対人不安が凄く強かったなぁと思い出します。

高校~大学の頃は女性と話そうとすると緊張しすぎて息が吐けなくなり、呼吸困難になっていました。

女性と付き合いたいし恋愛もしてみたかったのに、息ができなくなるので会話もできませんでした。息が苦しくなってその場から逃げ出すこともありました。ここまで来るともはや病気ですね(笑)。

人前で喋ろうとすると、緊張し過ぎて膝がガクガク震えました。

大変だったなぁという思い出があります。

でも今はいつの間にか治ったように思います。

人からどう見られているかをあまり気にしなくなったからだと思います。

40代も後半になり、人に対しても自分に対しても期待しなくなり、良く思われたいと思わなくなったからだと思います。

こうして社交不安障害は治りましたが、社交「確信」障害になってしまっているのではないかと思います。

何を確信しているのかというと、対人関係の不安や緊張はなくなりましたが、対人関係は確実に上手く行かないという確信が出来上がってしまいました。対等な関係の交流は問題なく出来るのですが、会社組織やシェアハウスなどの上下関係が強い組織では必ず人間関係が上手く行かなくなります。

つまり、僕の場合は対人関係に不安はなく、確信(どうせ上手く行かないという確信)があるという状態ですね。

不安というのは、上手く行かないのではないかとか、上手くいって欲しいという期待があって、その反作用のようなものなのではないかと思います。

やる前から確実に上手く行かないと分かっていれば、期待も不安もなくなります。

僕は今そういう状態なので働く意欲が湧いてこないんだと思います。

 

僕は大学時代のアルバイトから卒業後の仕事も含めるとたくさんの職場、職種を経験してきました。

それでどの職場でもどの職種でも必ず人間関係が上手く行かなくなり、嫌な思いをしてきました。

苦しさに耐え切れずに自分から辞めてきました。

もう働くことが心の底から嫌になりました。

もう二度と働かないと決意しました。

それがちょうど2年前のことですね。

 

でも今、生活保護を受ける身になって、そして妻子ある立場になって、迷いが出てきました。

ケースワーカーからの就労圧力が辛いからもう生活保護を辞退するのか…

実際に辞退した場合、妻子はどうなるのか…

全く予想が付きません。

僕がホームレスに戻り、妻子がシングルマザー家庭として生活保護を新たに受給するのか…

流石にどんなに厳しいケースワーカーでもシングルマザーに働け働けとは言えないような気がします。

僕がホームレスに戻るのも悪くないような気もします。

生活保護ではホームレスを救えないという事実を世に問うことができるかもしれません。

日本にはセーフティーネットがないことを世に知らしめることができそうです。

そういった意味では生活保護を辞退することにも意味があるのかもしれません。

 

僕はケースワーカーからの就労圧力や妻子の存在もあり、働いていない自分の今の状態を心の奥底では許せていなかったように思います。

でもとあるベテランカウンセラーの方から、今は心が疲れているから休んでいていいと思う、エネルギーの回復をする時期なんだと思う、働けない自分を許さないと本当の意味で心は休まらないと思う、と言われました。

働きたくない自分を許すのか、受け入れるのか、それとも働きたくない自分を許さず、無理して働かせるのか、今、その岐路に立っているような気がします。

政治その10 アメリカ大統領選を見ての思い

アメリカで大統領選があったようですね。

僕はバイデンよりも太陽光発電の方が好きです(笑)。

だからバイデンさんにもトランプさんにも期待してないです。

一時期トランプさんに期待してた時期もありましたが、ワクチンを強制しようとしている時点でもうダメだと感じました。

バイデンさんの得票数を見たら7500万票で、トランプさんが7000万票でした。

アメリカの人口は3億2900万人ですから、バイデンさんに投票した人は7500万票÷3億2900万人=23%。77%の人の意見が無視された形になりますね。

これのどこが民主的なんでしょうか。僕には民意が反映されているとは全く思えませんね。

77%の人の意見はどうなるのでしょうか。

アメリカ式民主主義、アメリカ式投票制度というものがいかに庶民の意見を無視しているかが分かります。

からしたらもう大統領なんていらないですね。

日本人の僕にとってもアメリカ大統領はいなくても困りませんけど、アメリカ人の庶民にとっても大統領なんていなくても困らないような気がしますけどね。

副大統領がいればOKという話ではなく、連邦を作る必要がもうないと思います。

アメリカ軍もいらないと思います。

州ごとの自治に戻したらいいと思うんですけどね。

3億2900万人もの人間が同じ意見になるなんて不可能だし、同じ国としてまとまっている必要はないと思います。

アメリカという国がなくなればアメリカ軍もなくなり、世界が平和に一歩近づくと思います。アメリカ軍を維持しなくてよくなるから税金も安くなるしいいことづくめですね。

もう国家というもの自体がいらないと思うんですよ。

国家というものは多分、戦争するために作られた組織だと思うんですよ。

国家や国軍がなくなるとすぐに攻め込まれるという意見もありますが、本当にそうでしょうか。

日本よりも小さくて軍隊も小規模な国がいくつも独立を保っています。

そういう国を見習いたいですね。

書評その121 せつない動物図鑑 ブルック・バーカー著、服部京子翻訳

小学生向けの絵本ですが、僕が読んでも面白かったです。

著者が描いた動物のイラストに、著者が調べた動物の面白い特徴が書かれていました。

笑えたのはとあるインコ。

オスのインコは好きなメスのインコの口にゲロを流し込むんだそうです。キスの目的は自分のゲロを流し込むことなんだそうです。笑いました。

あとはオスと戦ってオスに勝ったら交尾せず、オスに負けたら交尾するメス。オスに対して求めているのは強さのみ。体の大きさとかイケメンかとか全く関係ないそうです。

あとは面白い子育てをしているオオバンという鳥。

最初に生まれた子供だけに餌を与え、第二子以降の子供には一切餌を与えないという子育てをしています。当然、最初の子以外は次々に死んでいきます。

そして一週間ほど経つと、今度は一番下のヒナだけを可愛がり、最初に生まれた子供には一切餌を与えなくなるそうです。

著者はこの鳥の子育てを「えこひいき」と表現していましたが、もはやえこひいきを通り越して虐待に近いのではないかと思いました。