我慢をやめる生き方へ

我慢することをやめ、やりたくないことはやらない生き方を貫いていきたいと思います。

「無銭経済宣言」の理論編

 「無銭経済宣言」。この本はとても重要な本だ。あまりの内容にぐいぐい引き込まれていった。

 しかし本の内容が堅そうで難しそうな雰囲気もあるのか、重要な本であるにも関わらずアマゾンのランキングを見る限りあまり読まれていない。

 確かにこれだけページ数も多いと忙しい現代人の中で読める人の方が少ないだろう。なので私がこの本の中で特に重要な部分を抜粋しつつまとめてみたいと思う。

 このブログ記事は物凄く長いが、本の内容の十分の一以下にまとめてあるので、このブログを読むだけでも内容を把握する事はできるようにした。このブログがきっかけで本その物を読んでくれる人が一人でも増える事を願っている。

 

無銭経済宣言 ―お金を使わずに生きる方法―

マーク・ボイル著 吉田奈緒子訳 紀伊國屋書店

原本 Mark Boyle The Moneyless Manifesto 2012年

  

著者のためらい

 人生に多くを学ぶにつれ、わが身の無知を実感し、得られる知識の限界に気付かされた。そんな私が現代人の抱える難題に対する答えを何かしら知っているかのように受け取られかねない本を書くなんて、我ながらに厚かましい気がする。だからこの本を書くのに躊躇いもある。

 

 お金を全く使わずに3年近く生活した。

 

 人類が抱える難題に唯一の汎地球的な答えなど存在しないことも思い知らされた。直面する課題に対する答えは地域性に即したものでなければならないし、その土地に住む人々のニーズに合った物にする必要がある。

 

 貨幣経済だけが唯一選択可能な経済モデルではないと気付いてほしい。

 

 金はこの世での有益な勤めをすでに果たし終えたのかもしれない。貨幣経済からローカルな(地域に根差した)贈与経済への移行を決断できる段階まで、人間社会を進化させてくれたのではないか。

 

 一番大事なのは僕の言う事を何もかも鵜呑みにしない事。僕自身の偏見が紛れ込まないという保証はない。この本の中にプロパガンダの殻を見つけたらそいつを振り落とし、残った真実の種だけを取っておいてくれ。

 

第一篇 理論編

第一章 カネと言う幻想

 この本の主題はお金であって自己ではない。だが自己の境界線をどこに引くかは重要な土台となる。現代文化は「人間は野蛮な自然界とは無関係」という嘘を教え込む。しかし本当は「人間は自然界の切り離す事の出来ない一部」なのだ。

 

 人間もワンネス(万物の一体性)の一部なのだ。皮膚の内側だけが自分なのではなく、皮膚の外側も自分なのだ。金は諸悪の根源と言う。しかし僕が言いたいのは「間違った認識こそが現在の多くの危機の根源だ」という事。お金はこの思い違いを温存し、肯定する役割を担う。

 

 万物全体を自分だと認識すると、自分自身の心配をする事が即ち、河川、大気、土壌、森林の保護を意味する事になる。

 

 自己の境界線を広げてみれば、自分が世にもたらす贈り物の代金を他人に請求するのもひどく滑稽に思われてこよう。ペニスやクリトリスが両膝に対してオーガズム体験料を請求するのと変わらないほどに。

 

 倫理消費主義は有効ではない。なぜなら、製品やサービスの影響を被る広範な人間関係や生物同志の関係を隅々まで考慮に入れる事ができないから。

 フェアトレードのコンドームを使う配慮を忘れない強姦犯はそうではない強姦犯と比較すればわずかに倫理的だと言えるかもしれないが、倫理的と言う語をどう定義しようとも完全に倫理的だとは口が裂けても言えないだろう。

 

 「規模の経済(スケールメリット)」と「分業」の二つが「お金」と結びついた途端、それまでの調和が破れ、我々の祖先が想像もしなかった難局が生じた。

 コストパフォーマンスのために大量生産を求めずにはいられなくなる。そこで大量の原料調達が必要となり、またこぞって画一的な製品を欲しがる消費者の大群が必要となる。

 こうして残忍なまでに効率的な地球収奪、土壌の枯渇、森林消失などによる地球の肺機能低下、人間が資源と呼ぶ他の生物にとっての家の乱開発、諸文化の没個性化と均一化が起きている。

 

 お金が存在しなければ達成可能な最大規模は信頼に基づく真の関係を結べる範囲に留まる。おそらく人口150人以下(±80人ほど)の村1つの規模で、これは人類学者ロビン・ダンバーの有名な研究によっても意味のある人間関係を結べるとされた人数だ。

 

 「規模の経済」と「分業」という経済原則とお金が結びつくことで、地球上の人間およびそれ以外の生命を搾取し、伝統技術や持続可能な暮らしを工業化社会の歯車となる退屈な仕事(自由、創造性、自主性の観点からは報われぬ仕事)へと変容させた。

 

 清らかで健全な地球と、大規模工業化が必要な製品との両方を、一体どうやって手にしようと言うのか、僕には分からない。テクノロジーのレベルが高くなればなるほど、必要とされる「規模の経済」は大きくなる。大がかりな「規模の経済」は大勢の購買者を必要とする。また、基本的に買った品物はなるべく共用させない。誰もが1つずつ買わずにはいられないとなれば、どこの山の鉱石も掘り出され、どこの海の魚も一網打尽にされ、どこの森の木も安手の組み立て式家具に変えられていく。すべての森林が家具にされ、すべての魚が取り尽くされたら君や僕の吸う酸素がなくなる。

 

 以上の大きな理由もあって、僕は経済の完全な地域化と小規模な適正技術の利用を提唱する。適正技術とは、自分自身や地域社会のために自前で作り出せるテクノロジーの事で、このような環境負荷の小さい技術を地域社会全体で共有する。

 

 「分業」によって工業化社会及び資本主義は興隆してきた。その結果、効率の更なる向上、驚異的な技術の更なる誕生、労働力の更なる削減という恩恵をもたらしてきた。

 ただし、その裏側には莫大なコストの付けが隠されている。健全でまともな社会であればとても引き合わないと考えるであろうコストが。犠牲になるのは、幸福かつ変化に富み、自由に創造性を発揮できる人生―やりたい事を仕事にできるような人生―を送りたい、という欲求だ。

 

 もちろん、実際に好きな事を仕事にしている人もいなくはないが、近ごろではますます例外的な存在となってきている。こうした幸運な少数派を働いて支える大方の人は、皆同じ理由で月曜の朝を嫌悪し、金曜の夕方を好む。自分は何も悪くないのに、就くことのできる仕事は繰り返しが多くて退屈でやりがいがなく、貴重な贈り物―つまり僕たちの命―の無駄遣いである。

 

 さらに悪い事に僕らはそれに気付き始めている。だから魂や肉体の糧にならない仕事をして生じる虚しさを埋めようと抗鬱剤に手を出し、クリニックに通い、自殺や犯罪に走り、消費主義等の現実逃避で満たすようになる。

 

 週に40何時間もオフィスで過ごしていると、周囲の自然界や自分が消費する物とのつながりをほとんどなくしてしまう。

 つながりを断絶すると、品々の生産、流通に関わるすべての物と人に対する知識、共感、思いやりの欠如につながる。

 ガソリンスタンドで給油するとき、イラク戦争に思いを馳せる人がどれだけいるだろうか。そうした関心が心の中まで浸透して初めて、イラク人の父親の頬を伝う涙を見た時に心の底から衝撃を感じられるのだ。自然豊かな田舎へのドライブを僕らが楽しめるようになる、ただそれだけのために家族四人を亡くした父親の苦痛に満ちた涙を。

 

 お金の存在さえなければ、小規模なコミュニティーにおける分業は最適なレベルに落ち着くだろう。各人が何もかもを自分でやっていた昔に戻る事は、それもまた逆の意味で行き過ぎだ。コミュニティー単位で自足するようになるだろうし、もっとずっと変化に富み、繋がり合った、自律的で自由な人生を送れるようになるだろう。

 

 一つの地区辺り500台ではなく5台のハイテク芝刈り機を持つ事にしたら、その芝刈り機はそもそも生産の見込みすら立たなくなる。よって同じ論理ですべてのハイテク製品にも当てはまるとすれば、今日のような貨幣経済モデルは崩壊するだろう。分かち合いが崩壊を意味する経済なのだ。

 

 「お金」「規模の経済」「分業」の三角関係はもはや、地球の為にも人類のためにもなっていない。

 

第二章 カネなしの選択肢

 「無銭経済」とは、物やサービスの無償の分かち合いによって(即ち明確な交換条件を定めずに)、参与者の肉体的、情緒的、心理的、精神的なニーズを、集団としても個人としても満たす事のできる経済モデルである。分かち合う物は受益者の徒歩圏内で調達するのを理想とする(が必須ではない)。

 このような経済の実現に当たっては、当該地域に生きとし生ける物(将来の世代を含めて)のニーズを考慮に入れる。そのため、あらゆる生命に等しく気を配り、それらを総体的な繁栄と各成員の繁栄とが不可分の関係にある「相互依存的な全体」と見做す。

 

 僕の定義によれば、純粋な「無銭経済」とは、「贈与経済」と「100%ローカル経済」の合流点である。贈与経済社会とは、人々が持つスキルや時間、知識、情報、物品を、明確で厳密な交換の形を取らずに分かち合う社会の事。

 

 100%ローカル経済モデルでは、地元で取れる原材料、即ち居住地の徒歩圏内(地元の原材料でできた馬車で行ける範囲なども含む)の産品を利用して、あらゆるニーズを満たす。靴底から火起こし用の弓ギリを作る為の切断工具に至るまで全てだ。

 しかし、今の僕たちはこのレベルのローカル化とは遠く懸け離れた地点におり、社会を挙げてそのような生活を送るには、社会全体の再設計と大規模な農地改革が必要となる。

 

 全面的なローカル化が極端だと感じられるのは、極端にグローバル化した今の経済と比較するからである。しかし、ブラジルに住むアワ族のように人同士の絆も自然との結び付きも強い民族から見たら極端なのは私たちの方だ。

 

 一台のノートパソコンを製造するには、研究開発や初期インフラへの投資を回収するためだけでも同じ機種を何百万台と売らなければならない。そこで必要とされるグローバルなインフラが地球上の生命を支える生態系を汚染し破壊する事は知っての通り。さらには技術の専門家や工場の製造ラインで働く労働者も必要になる。生計を立てる為に一つの作業のみに従事し、危ういほど自然との繋がりが少なくなった結果、ますます人間社会と生態系への影響が生じている。

 

 資源ベース経済について。これは食物、水、鉱物など、生存に必要不可欠な物資の公平な分配をし、全人類が平等に分け合う経済モデルだ。

 しかしながらこの壮大なビジョンを実現するには、計画立案の更に前の段階から、全世界の民族という民族がこぞって参加する必要があるだろう。資源ベース経済が目指すハイテク製品を作るためには、大量の鉱物や資材を世界各地から取り寄せる事になる。 

 これだけ多様な国々や地域全てがそうした経済モデルと価値観に賛同しない限り上手く行かない。世界の民族、政治、文化、法体系、宗教の複雑さを考えれば、かなり非現実的な話である。

 

 一方、昔も今も、幸福感、充足感、コミュニティーや場所との絆をより強く表明するのはローテク社会に生きる人々である、という事実も広く報告されている。グローバルな西洋に住む僕らが抗鬱剤、現実逃避、自己啓発のカリスマに頼ってどうにか生きているのと全く対照的だ。

 ハイテク生活とローテク生活の両方を経験してみて、僕自身こう言い切れる。日常の中でハイテクの果たす役割が小さくなればなるほど、そして暮らしのローカル度が増せば増すほど、肉体的、精神的、情緒的な健康が増進したと。

 

第三章 理念の進化(POP)モデル

 すぐに理想の生活に変える事は難しい。そこで理念を段階的に進化させていく。長期目標までの各地点の具体像を予め把握しておき、それらを思い浮かべる事ができるようなモデルである。僕はこれを理念の進化(POP)モデルと呼んでいる。

 

 以下は僕個人の例である。「経済体制」に関して。

レベル1、100%ローカルな贈与経済(贈与経済に基づく完全な共同自給)

レベル2、全面的なローカル経済圏内で、地域通貨バーター取引に基づく共同自給

レベル3、贈与経済+貨幣経済への最低限の依存

レベル4、地域内交換、タイムバンク、地域通貨貨幣経済への最低限の依存

レベル5、「環境に配慮した」グローバルな貨幣経済

レベル6、グローバルな貨幣経済

 

「移動手段」に関する著者の例

レベル1、大地との繋がりを感じながら裸足で歩く。

レベル2、自作の靴又は無償で贈与された靴(地元産の素材を使用)を履いて歩く。

レベル3、バーターで入手した靴(地元産の素材を使用)を履いて歩く。

レベル4、中国の工場で製造されたスニーカーを履いて歩く。

レベル5、大量生産の自転車に乗る。

レベル6、ハイブリッド車に乗る。

他の人には各自の考え方に応じて僕のとは全然違ったPOPモデルがあっていい。

 

参考)カネなしで生きる他の参考人

1、ハイデマリー・シュヴェルマー

   映画「お金なしで生きる( Living without Money )

2、ダニエル・スエロ

   ユタ州にある洞穴に住み、野外に自生する(あるいはゴミ箱の中の)食糧を

   採集し、川で体や服を洗い、気の向くままに時を過ごす。

 

第四章 課題と移行策

 自発的簡素と聴くと、ほとんどの人は何かを諦めなくてはならないと思ってしまう。確かに最初の内は喪失感を覚えるかもしれないが、たちまち人生で初めて経験する自由と繋がりの感覚に取って代わられる。

 

 カネを手放そうと決心した当初は一年間だけのつもりだった。しかし12か月が過ぎた時、かつてないほど壮健で幸福な自分に気付いた。

 

 チューダー期まで、ほとんどの国土は共同所有されていた。そこでは自分たち全員の利益のために維持管理していた。しかし、土地を私有地として囲い込む事は事実上、多数の村民の排除をもたらす。追い出された人間は村から町や都市へ出て、金銭の奴隷の立場へと追い込まれる。

 

 家を建てる上での許可制度は変えるべきだ。その土地で取れる資材だけで作られる家は景観を乱さない。景観を乱し、環境を破壊するのは建築資材を世界各地から輸入するやり方だ。なのでこの2つは分けるべきだ。

 許可制度は英国内ではウェールズ地方が一番まし。あるいは許可制度がないか、ほぼ問題とならない国に移住してしまう手も考えられる。

 

 地方税を払うべきか否かは非常に大きな哲学的問題であり、熱心なカネなし論者の僕自身でさえ、どちらとも態度を決めかねる。