30年以上ぶりの海水浴
先日、ついに南房総市に引っ越して以来、初めての海水浴をしました。
海水浴をしたい気持ちとできない気持ちの両方があって、ずっと保留していました。
海水浴をしたいと思いながらできなかったのはいろいろ理由がありました。
まず、気に入った水着が見つからなくて水着を買っていなかったこと。
海水浴で一番やりたいことは海中の魚を見ることなのですが、コンタクトレンズを持っていない事、ゴーグルを持っていないこと。浮き輪も持っていないこと。
これらの物を購入するお金もなく、そのためにわざわざ働こうとも思えなかったこと。
沖縄の海の透明度と魚の多さを見てしまった結果、そこと千葉の海を比べてしまい、なかなか心が動かなくなってしまったこと。
こんなことが重なって、目の前に海がありながらずっと海水浴をせずにいました。
しかし、友達が子連れで来てくれて、そのお子さんに誘われるようにして海水浴をすることができました。
水着もなかったのですが、短パンで泳いでしまいました。
ゴーグルは貸してもらい、浮き輪には一緒に掴まって泳ぎました。
水着もゴーグルも浮き輪も車もバスタオルもお金もない中で海水浴を堪能することができました。泳ぐのが楽しかったのか、可愛い女の子と一緒だったから楽しかったのか分かりませんが、サーフィンを除くと純粋な海水浴は30年以上ぶりで楽しかったです。
今振り返ってみると凄く恵まれていたなと思いました。
道具やお金などの準備が整うのを待っていたら後回しにし続け、結局やれなかったと思いました。
海水浴をした海岸とは別の海岸です。ゴミがたくさんあったので女の子が拾おう!と言い出しました。僕含めて大人三人いたのですが、暗くなりかけていたこともあり、面倒臭くなってゴミ拾いはペットボトルを2つほど拾っただけで止めてしまいました。
いくら正しいことだと分かっていても、人間というのは面倒臭さには勝てないもんだと実感しました。
僕らがこの浜辺だけで少し拾ったぐらいではどうにもならないし…とか。
もう暗くなるから今度にしよう…とか。
今日はゴミ袋を持ってきてないから今度にしよう…とか。
ゴミ袋がないということはゴミで車が汚れる可能性大だ…とか。
ゴミは浜辺で捨てられる物だけではなく、海から流されて来る物もあるんだし…とか。
ゴミ拾いはあんまり楽しくないな…とか。
女の子のゴミ拾いをしよう!という尊い提案をなし崩し的に却下する形で海を後にすることにしました。
子供の自発的な行動や純粋な気持ちというのは、こういう大人からの何気ない否定で穢れていったり、消滅していってしまうのかなぁ…と後からいろいろ思いました。
最近、自分で自分を外から見つめるということをしてみるようになりました。
感情を感じている自分を外側から見つめる。思考している自分を外側から見つめる。
ということは感情を感じていたり、考えている人は自分ではないということ?
自分の本体は自分を外から見つめている人のことを言うのでしょうか。
僕は実は自分の写真が嫌いなんですよね。
何だか気持ち悪い。猫背で禿げてて真面目そうで小柄で自信なさそうで自分軸もなさそうで弱々しくて…何だか見てて痛々しい…。これでも宇宙が創造した完璧な存在だとはね…。
ありのままの自分を愛そうと思ったら、まずはありのままの自分を見つめなければならない。まずはありのままの自分に興味を持たなければならない。そのためには蟻のママの写真を最低10分は見つめなければならない。
三平方の定理とか糞の役にも立たないことを教える時間があるなら瞑想とか観照とか教えるべきだと思うんですけどね…。