我慢をやめる生き方へ

我慢することをやめ、やりたくないことはやらない生き方を貫いていきたいと思います。

統一教会その20 学生新聞をやっていた頃の思い出

原理研究会に晴れて就職できた後、割り当てられた仕事は学生新聞の編集長という仕事でした。

それまで学生新聞なんて書いたことも読んだこともなく、当然編集部員をやったこともありませんでした。

そんな人間がいきなり編集長という辞令をもらったわけです。

今振り返っても本当に突拍子もないですね。

ただ、僕にとって学生寮の寮長という仕事は荷が重いと感じていましたので、学生新聞の編集長の方がまだ務まりそうかなと思っていました。

前任者との引き継ぎがどれぐらいあったのかあまり思い出せないのですが、一日二日程度だったような気がします。

そんな程度でなんでいきなり学生新聞を作れたのかと言うと、一ヶ月に一回という発行ペースだったことや、他の学生新聞のOBが作った会社が新聞作りや僕の教育を支援してくれたからでした。あとは卒業して一般企業で働いている前々任者が仕事の合間を縫って手伝いにきてくれていたのも大きかったですね。

 

今振り返っても辛い思い出が蘇ります…

発達障害特有のと言うか、僕個人の悪い癖と言うか… 大事なことの引き伸ばし癖が新聞作りでも大きなネックになっていました。

レイアウトを外注していたのですが、スケジュールを立てない、立てられない、立てても守れない、という悲惨な状態で、レイアウトの会社の人にずっと迷惑を掛け続けていました。締切ギリギリに原稿を送り、その結果相手の人がほぼ徹夜で作業と言うような事が何度も続き、ついに電話口でぶち切れられたことも何度もありました…

その頃は発達障害なんていう単語はありませんでしたからね…

ただ単にスケジュールを立てない人間、大事な事を先送りする人間、何が大事なことなのか分からない人間、一言で言えば使えない人間、やる気のない人間という烙印を押されていました…

 

他に辛かった事と言えば、自分の正体を追求されることでした。

と言うのも、僕は都内の私立大学出身なのですが、赴任先は地方国立大学でした。

その大学では伝道が伸び悩み、学生新聞の後継者がいなくて廃刊目前となっていました。

それで僕はその大学の学生寮に住み込み、その大学の科目等履修生になって一般学生のふりをして新聞を作っていました。

科目等履修生というのはその大学の授業を1コマだけ受講している人のことを言います。科目等履修生になるにはセンター試験や二次試験などを受ける必要もなく、誰でも受講料さえ払えばなることができます。学内外で取材するためにはやはり少しでもその大学の学生らしい立場を確保する必要があったからです。

でもやはりその大学の普通の学部生ではないという事にかなり後ろめたさを感じていました。

そんなこともあり、いつも取材するときにはプレッシャーを感じていました。

今ほどではないにせよ、当時から統一教会系の新聞なのではないかと見られていましたし、大学公認のサークルではありませんでしたから。

統一教会じゃないのか!?と追及されたくなかったので、なるべく教授への取材は止めていました。取材対象は噂の知らなさそうな学生や大学の卒業生がメインでした。

 

もう一つの大きなプレッシャーが経済的な運営でした。

卒業生に電話を掛けて年間購読を1万円でお願いしていました。月一回発行だから年間12回発行なので1万円は高いですよね。と言うのも、新聞と言ってもページが4ページしかないんです。一人で作っているので4ページの新聞を作るのでも大変なのですが、中身は大してないので1万円は僕から見ても高かったです。普通の新聞が一部150円ということから考えると。ですので単なる購読料ではなく、1年間の賛助会員になって賛助購読という形式でお願いしていました。学生には無料で配っているし広告もなかなか取れないので経済的に大変だと訴えて。卒業生は後輩からの頼みだからしょうがないなあ、仕方ないねということで購読して下さる方がちらほらいました。

この電話掛けを夏休み、春休み、冬休みに朝9時から夜9時までやっていました。

布巾の訪問販売ほどではないにせよ、この電話かけも精神的に辛かったです。

とにかく否定の嵐。心はボロボロに枯れ果てていきました。一日中電話を掛け続け、断られ続けるのですから。

それでも通常成績が一日売上10万円と言うところ、新規で一日売上21万円という営業成績を挙げることができて一定の達成感はありました。

 

あと辛かった事として思い出されるのが、ある件で寮長からこっぴどく怒られた事です。スキー場から協賛品としてリフト券をもらっていて、クイズの当選者に送っていたのですが、応募者が少なくてリフト券が余った事がありました。余ったんだから捨てるのも勿体無いなと思い、僕の独断で家族か友人にあげてしまったことがありました。そしたら寮長からそれは公金横領に当たると言われ、普段温和な寮長からかなりきつく怒られました。僕は当時はたかがリフト券ぐらいで何でそこまで怒られなきゃならないんだと納得できませんでしたが、それ以来、もらったお金や物品を公的な物として大切に扱うようになりました。

 

学生新聞を作っていく中で、やっぱりこの仕事は絶対にその大学の現役学生がやった方がいいと痛感するようになりました。

それで当時の寮長とも相談して時期後継者に何とか引き継いで僕はこの仕事から引退することができるようになりました。

計2年間やりましたが、責任を果たせてホッとしました。

とにかく学生新聞はいろいろなプレッシャーで本当にしんどかったなというのが一番の思い出です。