我慢をやめる生き方へ

我慢することをやめ、やりたくないことはやらない生き方を貫いていきたいと思います。

書評その8 原理講論 劉孝元著

僕が書評するからには取り上げなければならない本の筆頭はやっぱりこの本ですよね。

原理講論(げんりこうろん)。世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の教理解説書です。

統一教会から世界平和統一家庭連合へと表看板が変わっても、信者の教育にはずっとこの本が使われています。

 

著者は北朝鮮人の劉孝元さん(りゅう・こうげん、ユ・ヒョウウォン。1914~1970)。北朝鮮人というか、当時は日韓併合の時代ですから北朝鮮地域出身の日本人という事になりますが…北朝鮮の定州市の出身らしいです。

統一教会創業者の文鮮明さんの初期の弟子で、文鮮明さんが書いた原理原本を劉孝元さんが体系化してできた物が原理講論です。

京城帝国大学医学部に優秀な成績で入学したらしく、たいそう頭のいい人だったようです。

祖父の代からキリスト教の信仰が厚い家庭に生まれ育ち、本人も高校時代から内村鑑三系のキリスト教会(無教会派)に参加していたようです。

 

ページ数は600ページもあります。

僕は1994年に入会して2006年に脱会するまでの間に計16回も読みました。

でも今はこの本を人に勧める事はなくなりました。

家庭連合に入会する事は僕はあまりお勧めしません。とにかくお金が掛かり過ぎますし、もっと他に良い宗教はあります。むしろ今の時代は宗教団体を通して神に帰る時代と言うよりも、一人一人が自分の内側を通して宇宙に帰れる時代だと思っています。

 

しかし、今振り返ってみても、この本は本当に良くできている本だと思います。

 

僕はこの本を読んだ時、行間ににじみ出てくる情熱と格調高い表現に心を打たれてしまいました。著者の情熱と感動に感化されました。当時は著者と同じ悩み・苦しみを感じていたのでぐいぐい引き込まれてしまったのです。

今でも心に残っているのはこの箇所です。

「…すべての人類の救済を標榜して、二〇〇〇年の歴史の渦巻の中で成長し、今や世界的な版図をもつようになったキリスト教の歴史を取りあげてみよう。ローマ帝国のあの残虐無道の迫害の中にあっても、むしろますます力強く命の光を燃え立たせ、ローマ人たちをして、十字架につけられたイエスの死の前にひざまずかせた、あのキリストの精神は、その後どうなったのであろうか。悲しいかな、中世封建社会は、キリスト教を生きながらにして埋葬してしまったのである。この墓場の中から、新しい命を絶叫する宗教改革ののろしは空高く輝きはじめたのであったが、しかし、その光も激動する暗黒の波を支えきることはできなかった。初代教会の愛が消え、資本主義の財欲の嵐が、全ヨーロッパのキリスト教社会を吹き荒らし、飢餓に苦しむ数多くの庶民たちが貧民窟から泣き叫ぶとき、彼らに対する救いの喊声は、天からではなく地から聞こえてきたのであった…」

 

どうですか。この文章。凄くないですか? 僕はこの格調高い文学的表現に心を撃ち抜かれたというか、ハートを鷲掴みにされてしまいました…

  

聖書は比喩や象徴で書かれている部分が多く、普通に読んだら分からないし面白くないですよね。

でも原理講論では、聖書を読んでいて疑問を持つような部分に明快な解釈を与えています。

そういう事もあり、初期の統一教会にはクリスチャンがたくさん入信していきました。

 

原理講論は話がとても論理的に展開していくので、僕が学んでいた時はどこにも論理的な飛躍や穴を見つける事ができませんでした。

しかし、今冷静に振り返ってみると、原理講論のベースとなっているキリスト教や聖書の内容の方に疑問が出てくるようになりました。内容が不確かな聖書の上に成り立っている以上、原理講論の内容も不確かな物にならざるを得ないと思いました。

 

具体的に言うと、聖書に書いてある全ての内容が正しいとは限らないし、イエスがメシアかどうかも分からないし、旧約聖書に出てくる神と新約聖書に出てくる神が同一なのかも分かりません。イエスだけが神の一人子なのかも不確かですし、イエスと同等な人物は他にもたくさんいたと思います。(僕は現時点では、旧約聖書に出てくる神はレプティリアンという宇宙人で、新約聖書に出てくる神は絶対無限の存在であると思っています。つまり、旧約聖書に出てくる神と新約聖書に出てくる神は同一ではなく、別の存在だと思っています。)

原理講論では、このような根本的な問題には触れられていません。あくまでも聖書の内容は一字一句正しく、イエスだけが神の一人子であるという前提で話が進んでいきます。

 

原理講論や聖書はネット上に本文が無料で公開されています。もしご興味があれば検索されてみてはいかがでしょうか。

 

僕は統一教会への入会はお勧めしませんが、キリスト教をやっている人にはこの原理講論の最初の「総序」という導入部だけでも一度読んでみて欲しい気がします。

と言うのは、この本自体がキリスト教信者向けに書かれているからです。キリスト教の人から見たら異端中の異端である統一教会の本なんて絶対に読みたくはないとは思います。でもきっと凄く面白く読めるような気がします。なんせ、著者の劉孝元さんはバリバリのキリスト教信徒でありながら、キリスト教が解決できない問題に悩み、それに対する解答を原理講論に見つけたと感動しているのですから…