我慢をやめる生き方へ

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統一教会その4 文鮮明さんはメシア(救世主)なのか

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イエス・キリスト(いらすとや)

統一教会関連の記事はあまり人気がないようですので、遠回りせずに結論めいた話に持っていきたいと思います。

ズバリ、文鮮明さんはメシア(救世主)なのか!?というテーマです。

文鮮明(ぶん・せんめい)さんとは、世界平和統一家庭連合(旧称・統一教会)の創立者です。

統一教会員、つまり普通の人にとっては文鮮明なんて救世主なわけないじゃんとすぐに分かるのですが、統一教会員は今も文鮮明さんを救世主(メシア)であると信じています。

僕は2006年まで統一教会に入っていましたが、その時までずっと文鮮明さんをメシアだと信じていました。

脱会したのは文鮮明さんがメシアではない事が分かったのが理由ではなく、婚約関係が上手く行かなかったからです。

ですので、2006年にやめた後もしばらくは文鮮明さんはメシアだと思うけど、僕はもうこの宗教団体でやっていく事はできないな…と思って辞めたのです。

今はもう文鮮明さんがメシアだとは思っていません。

しかし文鮮明さんと教団に対して恨みも憎しみも怒りも悲しみも持っていません。

文鮮明さんに関しては経典を作り出した創作能力、聖書解釈能力、演説力、行動力、集金力、心理支配技術などなど、能力的には凄いなという気持ちは今でも持っています。

文鮮明さんがなぜメシアではないのかについて、僕の考えを述べていきたいと思います。

僕の意見が正しいかどうかは分かりませんよ。

文鮮明さんをメシアだと思っている人がいてもいいし、メシアだと思ってない人がいてもいいという考えです。

そしてできれば文鮮明さんをメシアだと思っている人とそう思っていない人同士が争う事なく、棲み分けて、平和裏に共存していければいいなと思っています。

さて、文鮮明さんがメシアかどうかという話に戻ります。

結論から言うと、僕は人類にメシアは必要ないという意見です。

人類はアダムとエバの堕落以来、原罪を持っていて、だから贖罪する人、つまりメシアが必要だという考え方があります。これが統一教会の基本的な考え方です。

僕はそもそもアダムとエバは堕落してないと思っています。

性的関係を持つ事は人間として、生物として当たり前の事で、その時期を神に決められる必要はないし、神にその事を決める権利も資格もないと思っています。

いつセックスするかというのは、アダムとエバが自由に決めればいいのであって、第三者が助言するのはいいとしても、何歳まではやってはいけないとか、神だろうが何だろうが他者の自由意志を尊重する必要があると思います。本当に神がそんな事決めたのか、神本人に直接聞いてみて確かめればいいだけだと思います。

神だけが偉くてアダムとエバは偉くない、そういう階級主義は家父長制や独裁主義につながるので民主的とは言えないと思います。

アダムとエバは堕落してないし普通なのであって、だから救われる必要もないから救世主も必要ないし、メシアなんて来てくれなくていいんです。

それにもっと根本的な事を言うと、僕は聖書自体を信用していません。統一教会では、聖書に書いてある事を絶対視しています。

本当に聖書に書いてある事が全部が全部正しい事なのかどうか、僕だけでなく多くの人が疑問を投げかけています。

権力者によって何度も何度も書き換えられてきました。

権力者にとって都合の悪い部分は削除され、権力者にとって都合のいい文章が組み込まれてきたのですから、庶民は聖書を信じる必要はないと思います。

つまり、アダムとエバと蛇と神の話は本当にあった話なのか分からない事ですし、信じる必要もないし、その話の解釈によって自分の人生を自分で縛る必要もないと思います。

今まで述べてきました事からも分かると思いますが、僕はイエスさんもメシア(救世主)だとは思っていません。

エスさんがやった事、言った言葉は素晴らしい物だったと思います。しかし、彼がやった事や言った言葉が正確に聖書に残されているとは思えません。むしろ、彼が言った言葉が削除され、彼が言ってない事を言った事にされていると思います。

エスさんはハイヤーセルフと一体になって生きる事が出来た人だったと思っています。でもハイヤーセルフと繋がって生きる事ができた地球人はイエスさんだけではなくたくさんいたと思っています。たくさんいる以上イエスさんだけを特別扱いする必要はないと思います。立派に生きた普通の人だと思います。

普通というか、彼はアルクトゥルス系地球人だと思います。

聖書の創世記よりも、「アルクトゥルス人より地球人へ ― 天の川銀河を守る高次元存在たちからのメッセージ」という本の方が僕にとっては遥かに信憑性が高く感じます。

話のついでに書きますが、統一教会の根本経典である「原理講論(げんりこうろん)」は基本的には聖書の新しい解釈を示した本です。

しかし、聖書そのものの内容が正しいかどうか微妙ですので、聖書の解釈論である原理講論は信じる必要も従う必要もないというのが僕の意見です。

 僕の結論的意見

1、文鮮明さんはメシアではない。

2、聖書に書いてある事は嘘が多い。だから信じる必要もないし、従う必要もない。

3、人間は堕落していない。だから原罪もない。だから贖罪も必要ない。

4、人間にメシアは必要ない。メシアは今まで現れた事がなく、今後も現れない。

5、神は偉くない。と言うか、神も人間も同じ命の一種。神と人間は対等の関係。

6、イエスさんは素晴らしい人で尊敬するがメシアではない。

7、聖書を信じる必要がない以上、聖書の解釈論である経典(原理講論)も信じる必要がない。